桜、散り初め

難波中公園の桜です。
人けのない公園で
花は散り初めていました。

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ソメイヨシノはあまり風情のある花ではないですが、散り初めは少し物悲しいです。

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急に空が晴れたので、青い空をバックに桜を見上げると、何か生き生きしていて、写真に撮りました。
先日、平野区で山桜系の花をみました。

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緑の葉が出てきています。 
大阪府の南部の地域の人たちは、大抵山桜を葉桜と言って嫌います。
里山の雑木のイメージがあるのでしょう。
葉が混じらず花だけというのが、純粋とか潔いということでしょうか?
でも、描いても陰影に乏しい、紅葉と同じく逆光気味の方が良いのかな?
この木もまだ若木ですから葉が目立つのですが、成木になると花が見事になります。

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残念ながら、今年は赤い芽の山桜に、出会っていません。
十数年前、河内長野金剛寺北朝の行在所に見事な赤芽の山桜がありましたが、周囲のソメイヨシノが褪せて見えました。
平安時代の女房装束の桜の襲色は山桜のよろしき面影を衣装に生かしているそうです。
山間に行けば、野生の山桜がまだまだ見られるところがあります。
見に行きたいです。

四天王寺の守屋祠(願成就宮)

数年前に渋川廃寺跡に行ったことがあります。

仏教徒、特に坊さんからは、物部守屋大連さんは、今でも目の敵にされています。

鎌倉時代の親鸞さんも守屋さんの事をボロクソに言ってます。

和讃の中で

「守屋カ邪見ヲ降伏シテ。佛法ノ威徳ヲアラワセリ。イマニ教法ヒロマリテ。安養ノ往生サカリナリ

如來ノ遺教ヲ疑謗シ。方便破壞セムモノハ。弓削ノ守屋トオモフヘシ。シタシミチカツクコトナカレ」

と書いてます。

その守屋さんがお寺を造っていたらしい。

しかもかなり大きなお寺だったということです。それが渋川廃寺。

物部氏は本来、霊的なものを掌握していた氏族だったそうで、そうだとすれば、

新しく入って来た仏教も、物部氏が管理するモノの一つだったと考えられます。これは私の生半可な知識で、戯言として聞き流してくださいね。

その頃の政治・外交で考えられる呪詛や厭魅、蠱毒などが施されているかもしれない(多分されていた)モノをお祓いして、お清めすることで、無害なものにするのが物部氏の役目だったとすれば、

渋川廃寺は、ひょっとして石上神宮などと同じような役割の施設だったと思うのです。

そう考えれば、堀江に仏像を鎮めたことも、尼僧を鞭打ったことも、人形流しや、狐憑きの祓いと同じだったのかもしれません。

半島から持ち込まれた一光三尊仏像=呪いの人形、形だけの尼僧によるその仏像への礼拝=憑依状態が起こる。仏憑きか?

仏像は、何か知らんけど、何と無くありがたい外国の神様という認識しか当時はなかったようですから。

それを祓い清めるのが物部氏のお仕事だった。結果廃仏論者と見なされた。歪曲されて歴史に記された。

この辺は藤原不比等の陰謀だったという説もあるそうです。

四天王寺に守屋祠があります。 

四天王寺というお寺は不思議な佇まいを持っています。

私にはお寺のように作られた神社に見えます。

そして守屋祠こそが本殿であると感じられます。

守屋祠は、四天王寺願成就宮と呼ばれています。

守屋さんの霊が四天王寺建立に力を貸してくれたという伝承が残っているためです。









オガタマノキが花を咲かせていました。

お中日ですが。まだまだ寒いですね。大阪市内も雪混じりの雨が降っていました。

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先日、出かけたときに、近所の公園で咲いていました。
なぜか惹かれるモクレン科の目立たない花ですが、古今伝授の中で「古今の三木」の一つとして取り上げられています。
オガタマノキ、古い表記ではヲガタマノキ、高知県特別天然記念物になっているミカドアゲハの食草です。
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カラタネオガタマとよく混同されていますが、オガタマノキは在来種です。カラタネオガタマは江戸時代に輸入された木で、
カラタネオガタマは花はぼってりしていて、しかもバナナのような匂いがします。
オガタマノキはかすかな清涼な香りがあります。
たくさん咲いているところでは気分がスッとします。木自体にも香りがあります。
大阪市内では、公園や道路の街路樹によく植えられていますが、本来神社に植えられる木です。




祟り物の怪、2

私がその事をおぼろげながら知ったのは、祖母の昔話であった。

孫の守りのため昔話を聞かせてくれるが、話は尽きてくるもので、近隣で起こった出来事や、家族の昔話などが多くなる。

そこで、祖父の事も話の種となった。

昔は、近隣の村とよく争い事があった。

特に、水争い。

これは深刻なものであった。

古い先祖の話でも、近隣の村と争った時、攻めてきた隣村の村人たちを、村の寺の境内に誘い込み、監禁し人質にして、相手を屈服させたという話、うちの先祖が村の代表で、これを取り仕切っていた。

このため、その先祖が死んだ時は、相手の村人は三日間仕事を休んで祝ったという話。

明治・大正の世でも、争いは、絶えなかった。

祖父も水争いというか、水喧嘩に参加して暴れまくった事があった。

しかし、この頃には警察が厳しく取り締まり、祖父も村のその他の若い衆とともに警察に連行されて事情聴取された。

そして、自分が長男だと思っていた祖父は、実は次男であることが判明した。

祖父は曽祖父の後妻の子で、長男は先妻の子であった。

先妻は、曽祖父との間に男女2人の子を設けたが、先妻は間も無く病死してしまった。

そして、後妻に入ったのは、私の曽祖母である。

曽祖母は、二人の子供の継母になった。

そして、子供たちにかなり辛く当たっていたらしい。

具体的にどうだったかは、聞いていない。

話を聞いたのが、私は曽祖母に凄まじくいびりを受けたと主張する祖母だったから…。

祖母の性格から見て、負けるタマではない。

多分鬼嫁だっただろう。

祖母の話のオチは全部いびりの返り討ちだったし…

曽祖母は私の生まれる前に、とっくに他界しており、そっちの言い分は聴きようもない。

ただ、父親や叔父から聞いた話では、曽祖母は全く気の回らない人だった。

仕様もない事を言ってはやり込められて凹んでいたそうである

だから、曽祖母と先妻の子供たちの間に起こった出来事を簡略に述べる。

曽祖父は曽祖母が嫁いできて間も無く、疫痢に罹った。

曽祖母は、下の世話から汚れた衣類の洗濯まで全部子供たちにさせた。

そして、曽祖父は助かったが、子供たちは二人とも疫痢に感染して亡くなってしまった。

曽祖母が継子たちを殺したということになる。

子供たちにしてみれば、他人であるこいつに親を取られてなるものかと、曽祖母を曽祖父のそばに近づけなかったのではなかろうか。

先妻の実家も、村の人たちも曽祖母が子供達を殺した。当然そう思うだろうし、恨みも深く、あの家は人殺しの家というレッテルが貼られて、末代まで言われる事になった。 

「曾祖父さんの話やったらな、その先妻さんは、病気になる前はお福さんみたにな、福々しい顔してたんやし。

お前の見たんはその人やろな。

自分は死んでも子供らは残る思てたのに、二人とも死んでしもた。そら恨むわな。」

子供の時は何気無く聞いていた。

先妻さんや子供達の年忌も、とうの昔に100回忌を済ませた。

しかし、我が家はこれよりもっと以前からずっと、代々、長男が生まれないとか、早死にする。

曽祖父も長男ではなかったし、その先代は入り婿である。

そう、もっと前から、何かがあったようだ。

「積善の家には必ず余慶あり。

積悪の家には必ず余殃あり。」

易経か何かの言葉を思い出す。

祟られているとか呪われているとか、そんな言葉には、自己反省が欠如している。

被害者意識そのものである。

しかも自分の今を先祖のせいにすることは、自己逃避…。

家の積善・積悪に左右されたとしても、自分は自分である。

祟り物の怪

子供の頃、夜はなかなか寝付けなかった。
目を閉じると怖い物が見える。
幼心に考えられる限りのお化けとか幽霊、あやしげ恐ろしげなもの、次から次へ思い浮かぶ。
幼少期は我が家の周辺は田圃ばかりの田舎である。ドがつくほどの…。
春から夏にかけて、カエルの声が大騒音である。
秋は、虫の音、これもまた、大合唱、虫の音に、もののあはれを感じるどころの騒ぎじゃない。
それらの音も恐怖を増幅させて、寝るどころではない。
父母が眠った後、一人目が覚めた状態である。
寝てしまうと、そのまま帰って来られない。
目を閉じることの恐怖が、私に襲いかかる。
一つ目の大口開いた顔であり、嫌らしく嗤うお多福の顔であり、埃をかぶった起き上がりダルマがその大口をぱっくり開いて…
起きている時も夜ともなれば、家の中には、あちらこちらに闇があり、その闇の深い所々に、潜むものがほの見える。
ほの見えるものに定かな形はないが、定かでない事がなお恐ろしい。
主屋と離れを繋ぐ伝廊下には灯りがない。窓が一つあるが、外は松が一本、その下は躑躅、木斛、槇、青木、その下生えは龍の髭、夜ともなれば月の明かりも差し込まない。
この伝い廊下は主屋から見た突き当たりは壁であり、板戸が左手にあった。
嫌な場所である。私は、伝い廊下の突き当たりの壁が苦手であった。私にとって最大の鬼門、邪気の溜まり場のように思えた。
離れに行く時はほのかな恐怖があった。
しかし、離れから主屋に帰る時は恐怖心は最大、私の後ろに、常に何かの気配があった。
寝る時、目を閉じると見えるもの、それは顔だけであったが、壁の気配は全身像、全開の恐怖で、振り返ることができない。
そして、夢にそれを見る時は、伝い廊下で、後ろから私を追いかけてくるものは、凄まじい形相の女の姿、幽霊の姿である。
後々、これが怨霊の類であることが分かってきた。
それはずっと先の事である。