江戸時代いけばなサバイバル戦略

いけばなに、五行格とか三才格とか、天円地方とか、とってつけたような中華味がつけられたのは、サバイバルの為だったって知ってた?

ついでに体用相応とか言う何かカレー味な言葉もある。

主には、享保・寛政・天保という三代改革に代表される幕府からの締め付けで、

庶民から武士まで贅沢禁止ということで、

芸道関連で槍玉に上がったのが歌舞伎などとともに、当時の抛入花で、これは茶花から始まり、後の流儀花(御生花・格花)の母体となったいけばなで、

茶花をいけばなとして独立させて、サイズを大きくし、処理しやすいように長短2つけたの線を基準に構成されるように改良し、茶室以外の座敷の花に発達させたもので、茶花より見応えがあり、立華・立て花よりは簡略で手頃ないけばなとして都市圏だけでなく、街道経由で全国に広まっていったそうである。

初期は様式化や形式が未だ確立していなかった。(近現代の盛花由来の投げ入れ花ではない。)

禁令に触れそうなところを儒教思想や仏教思想を表現していると言ったり、お公家さんや門跡寺院などに献金して、それらしい(御花方みたいな)役職名や(法橋とかの)位を授けてもらい権威付けし、生き残りを図った。

いわゆる流儀花の確立というか。

流儀花では寸法が大きくなることと、

立華の水際に当たる表現として立華のように、根元で一本の幹に見えるように生けられた。

花の起きさも抛入花よりは大きく生けられるようになり、サイズが60cmを超えると長短2つの線だけでは纏める事が難しくなり、もう一つの線が表現されるようになった。

それが天地人三才とかの意味付けと合致した。

流儀花は、武士層や町人に儀式の飾り花として支持される事になる。

祝儀花には祝儀事の意味付けがされる。

その名残がいけばなの世界の中に残る儒教言葉や仏教言葉で、深い意味など別にないものである。

明治以降は家元に役職や位を販売していた門跡寺院が寺領などがなくなり経営破綻しそうになって、その生き残りの為、名前貸しから実質の家元となった。というのは余談。


明治時代は女学校を中心に道徳教育の一環として生花を教えるようになった。

個人レッスンから授業になった為、教えやすいように生花は形式化した。

いけばなをやるのは女性とか、いけばなは道徳とか、いけばな=形式とかの常識がまかり通るようになったのは、ひとえに学校教育が弊害になっている。

元々は自然の枝ぶりをどう生かすか?とか一番感動した瞬間ってどう表す?心のフォーカスは?シャッターチャンスは?とかを追求してきたいけばなを、見事に没個性の道徳擬きにしてしまったのは、近代公教育の賜物ということらしい。

みんな家元制度のせいにばかりするけどね。過去においてはイノベーションの世界、独創性がなければ、支持されなければ、時代の変化に即した対応ができなければ、攻撃を交わす理論武装ができなければ、生き残れない世界を堂々と乗り越えて継続している。それを伝統って言う。

伝統を殺した真犯人は近代公教育に端を発する学校教育と教員だったりして……。