お玉稲荷
ある田舎での昔話です。
小板屋幸吉はこの辺りでかなりの財を成した材木屋である。紀州や四国まで船で材木を買い付けに行っていたという。
幸吉は四十代まで嫁を取らなかった。
と言っても別に女嫌いというわけではないが、どういうわけか縁遠く、この歳に至ったのである。
小板屋の屋敷の庭には稲荷様の祠が祀ってあった。小板屋がここに店を構えたときに、祀ったもので、小板屋は熱心にお祀りしていた。
その日も祠の周りを清めてお供え物をして、お詣りした。
小板屋は変わった男で、稲荷様に家内安全とか商売繁盛などを終ぞ祈ったことは無く、何時も、
「今日まで生かせて頂いてありがとうございます」
とだけ言うのである。
その日も何時も通りにお詣りを済まして店に出ようとすると後ろに気配を感じ、振り返ると、祠の脇に狐が一匹ちょこんと座っていた。
ご眷属様かと思って頭を下げると、狐はそばに寄ってきた。
よくなついている様子で、頭を幸吉の膝にすりつけてくる。
頭を撫でてやると、手を舐めてくる。
はて、これは何処かで飼われていた狐が迷い込んで来たのかと思った。
そこで、手代の佐吉を呼び、この辺りで狐を飼っている人がいるか聞いてみると、佐吉は驚いた様子で答えた。
「ああ、これは私の祖父が山で拾ってきた狐でございます。祖父は玉と名付けて可愛がり、家の者にもなついておりましたが、先年祖父がなくなると、どこかへ行ってしまいました」
狐は佐吉を見るなり、佐吉の膝に抱きつき思い切り顔を舐めている。
幸吉は、それを見て、
「そうか、そうだったのかい。それならこの子をうちで飼ってやろう。玉という名前かい?」
狐は幸吉の家で飼われる事になった。
玉が来てから店は益々繁盛するようになった。
幸吉は思った。玉はやはり稲荷様のご眷属になっているのだと、跡目は佐吉しよう。この男なら良い。真面目で陰日向なく働く。しかも稲荷様の御加護も頂いている。
そして何年か経って、ある夜の事、幸吉の夢に狐が出て来た。そして幸吉に言うことには、
「小板屋様、これまで生かせて頂いてありがとうございます。
玉も寿命でございますゆえ、稲荷様のご眷属になる時が来ました。
それにつけても心残りのことがございます。
小板屋様が何時迄も独り身でおられることです。
佐吉さんの妹さんに、お梅さんという方がいます。この方は小板屋様とご縁があって、奥様にお迎えになれば子宝にも恵まれます。
歳も離れていますが、お子様方は佐吉さんを後見とされると心配はありません。
名残惜しいですが、これで玉はおいとまさせて頂きます」
そこで目が覚めた。
朝、稲荷様の祠の所に行くと玉は祠の脇の植え込みで死んでいた。
小板屋は狐を手厚く葬り、佐吉に夢の話をした。
幸吉の遠縁のお松さんという人を佐吉に嫁がせて、佐吉に暖簾分けして、店を持たせ、その後しかるべき仲人を頼んでお梅を嫁に取った。
そして、お梅を妻にすると三人の子宝に恵まれた。
お梅はとある旗本に奉公していたので行儀作法や家事も抜かりなく、家の切り盛り一切を仕切った。
幸吉は親を早くに亡くしていたので、嫁姑の煩いもなく、家は栄えた。
稲荷の祠は、いつしか「お玉稲荷」と呼ばれるようになった。
以上、人から聞いた話で、その稲荷様の所在はわからないですが、いつかお参りしたいと思います。