猫と鰹節

野外にしつらえられた能舞台、いわゆる薪能か?三脚に組まれた棒の上に載せられた籠の中で割木が燃やされて、照明になっている。

木の燃える匂いと、煙が怪しくシテの影を浮かび上がらせ、能管の鋭い響きと鼓の音が心に刻まれて行く。

神霊も亡霊も時に緩やかに舞い、時に激しく踊る。

夜神楽を観賞した時は、神と人の一体化を目の当たりにしたが、

薪能はもっと深い澱のようなものを感じる。

深夜アニメの世界でも、こういう世界があった。

形を変えても、私たちの血に流れるものが、呼び覚ますもの、それが大和の形なのかな?

風向きのために私は帰り際には、程よくスモークされていた。

「羽田さん、ベーコンになってるよ。喫煙もほどほどにしないと」

「羽田の場合はベーコンじゃなく鰹節だろ?こいつ嫌に猫に好かれるし」

周囲に言われて前夜薪能観賞をした旨を伝えると、

「猫に鰹節って言葉があるが、羽田の観能は、猫に小判か?」

と言って笑う同僚の顔を見ながら私は思った。

その論だといつの間にか猫と鰹節が一体化している。

猫が鰹節か?

伝統的な思考だ。

ロジックは崩壊している。

そしてすり替わったまま話が続く。

でも、それはどうでもよい事なのだよ。

そう指摘されるまでも無く、

そんなことはすぐ忘れる。

煙と火の粉が舞っている光景だけ、強く心に残っている。

そういえば、共産党は、清廉潔白?と言うつぶやきネタが、mixiにあった。

清廉潔白=善

と言うのも、些か、すり替えを感じる。

一番清廉潔白なものが善であるかのような……。

これはこれで取り止めの無い話。

「猫が鰹節」も、いずれ「猫は鰹節」になるのだ。