希望という名の不安定
(脈絡なくだーらりとした文章ご勘弁、
ついでに時々飛んでます。)
希望って?
街角のポスターの一言、「安定は希望です」だったかな?
安定なんて所詮叶わない夢って言い切っているんだよね。
希望は、冀望とか稀望と書くこともあるみたい。
冀望だとそうあって欲しいと願うこと。
稀望とか希望だと実現する事が極めて少ない望みの事になる。
でも、小学校で稀望とか冀望とか書いたらペケポンね。
私ゃひねくれものだから、こんな言葉をポジティブに聞く耳など持ちゃしないんだ。
なんか仏教用語じゃこれって(けもう)って仮名振ってたよ。
ちなみに平等は仏教用語の(びょうどう)と読むが、(へいとう)も当然有り、昨今お騒がせの朝日新聞にも昔、(びょうどう)だけが正しいと思い込んでいるのか、単なる悪意なのか知らんけど、(へいとう)という読み方を笑いにしたバカ漫画が載ってた。なんか胸糞悪かった。
さすが朝日新聞だよ。こんなのに四コマ書かせている。
今の世の中の常識じゃ(けもう)は間違いってことになるんだろうな。あ、受験があるから仕方ないのか?
なるほど……!
パンドーラの箱の中に最後に残った奴が希望だったというけど、残った奴「エルピス」だったかな?
希望とも予知とも言われているって先ほど知った。
七坂の女
江戸時代いけばなサバイバル戦略
いけばなに、五行格とか三才格とか、天円地方とか、とってつけたような中華味がつけられたのは、サバイバルの為だったって知ってた?
ついでに体用相応とか言う何かカレー味な言葉もある。
主には、享保・寛政・天保という三代改革に代表される幕府からの締め付けで、
庶民から武士まで贅沢禁止ということで、
芸道関連で槍玉に上がったのが歌舞伎などとともに、当時の抛入花で、これは茶花から始まり、後の流儀花(御生花・格花)の母体となったいけばなで、
茶花をいけばなとして独立させて、サイズを大きくし、処理しやすいように長短2つけたの線を基準に構成されるように改良し、茶室以外の座敷の花に発達させたもので、茶花より見応えがあり、立華・立て花よりは簡略で手頃ないけばなとして都市圏だけでなく、街道経由で全国に広まっていったそうである。
初期は様式化や形式が未だ確立していなかった。(近現代の盛花由来の投げ入れ花ではない。)
禁令に触れそうなところを儒教思想や仏教思想を表現していると言ったり、お公家さんや門跡寺院などに献金して、それらしい(御花方みたいな)役職名や(法橋とかの)位を授けてもらい権威付けし、生き残りを図った。
いわゆる流儀花の確立というか。
流儀花では寸法が大きくなることと、
立華の水際に当たる表現として立華のように、根元で一本の幹に見えるように生けられた。
花の起きさも抛入花よりは大きく生けられるようになり、サイズが60cmを超えると長短2つの線だけでは纏める事が難しくなり、もう一つの線が表現されるようになった。
それが天地人三才とかの意味付けと合致した。
流儀花は、武士層や町人に儀式の飾り花として支持される事になる。
祝儀花には祝儀事の意味付けがされる。
その名残がいけばなの世界の中に残る儒教言葉や仏教言葉で、深い意味など別にないものである。
明治以降は家元に役職や位を販売していた門跡寺院が寺領などがなくなり経営破綻しそうになって、その生き残りの為、名前貸しから実質の家元となった。というのは余談。
明治時代は女学校を中心に道徳教育の一環として生花を教えるようになった。
個人レッスンから授業になった為、教えやすいように生花は形式化した。
いけばなをやるのは女性とか、いけばなは道徳とか、いけばな=形式とかの常識がまかり通るようになったのは、ひとえに学校教育が弊害になっている。
元々は自然の枝ぶりをどう生かすか?とか一番感動した瞬間ってどう表す?心のフォーカスは?シャッターチャンスは?とかを追求してきたいけばなを、見事に没個性の道徳擬きにしてしまったのは、近代公教育の賜物ということらしい。
みんな家元制度のせいにばかりするけどね。過去においてはイノベーションの世界、独創性がなければ、支持されなければ、時代の変化に即した対応ができなければ、攻撃を交わす理論武装ができなければ、生き残れない世界を堂々と乗り越えて継続している。それを伝統って言う。
伝統を殺した真犯人は近代公教育に端を発する学校教育と教員だったりして……。
財政再建団体寸前のふるさとですか?
ふるさとは誰にでも同じものではない。
懐かしむ人もある。そうでない人もいる。
こんな人がいた。
元々ウサギなど住んでいるのを見たこともないが、宅地造成で緑を失った、かの山
小鮒はすでに生息しているかどうか疑わしい、セメントで固められ浄化能力のない、かの川
ちっちゃい利権に群がる欲の皮突っ張らかしたガリガリ亡者が集うふるさと。
雨に風につけても、滅んでしまえ。消えてなくなれと呪い続けるふるさと。
またですか?
一体何があったんです?
聞いてみると、久々訪れた故郷がえらいことになっていたのだそうだ。
河川改修で国から補助金得るために、役場と業者が結託して、川底にまでコンクリートを貼り付けてでっかいドブにしてしまっていた。
人権絡みだったから、変だと思っても誰も声を上げなかった。
工事反対=人権侵害
反対者=差別者
になりかねないからだとか、
その辺の理屈はよくわからない
もちろん、その人の意見が正しいのかそうで無いのかわからない。というか、その辺は興味ない。
ただこの人のふるさとでの境遇って凄まじいものがあったような気がする。
田舎の古い家はプライバシーの保てないというか、プライベートを否定する構造だった。
田舎は精神衛生上良くない人間関係と、ヒーリング効果のある自然のバランスでどうにかこうにかの場所、
村落共同体の因習、閉鎖的に人間関係。
唱歌「ふるさと」なんて、やっと逃げ出すことが出来たと言う余裕から生まれた歌っぽい。
山や川が死んでしまえばそこで生活する価値など全くない。デメリットしかないからである。
彼はその少し興奮気味で言葉を続けていた。
人権絡みで批判するのはリスク高すぎでしょ。大義名分の怖さ知らないでしょ?
けど、人権擁護って言葉、不謹慎ながら私が連想するのは動物愛護センター。
言葉など、知らぬ間に真逆の意味に
すり替えられていたりするのではなかろうか?